働くASDパパ、親子で“発達”してます

職場で浮き、家庭で揺れて。それでも僕は、親であり続けたい。

「やあやあ、才能の原石共よ」|絵心甚八に学ぶ“指導者の覚悟”

のび太くんじゃないよ

「子どもは“普通”に育ってくれたらそれでいい」  
──よく聞く言葉やけど、僕はそれを目にするたびに違和感を覚える。

普通って、なんなんやろう。  
誰が決めた基準なん?僕は今でも“普通”ってやつがよくわからへんし、  
正直、憧れたこともない。

ASD当事者として生きてきた僕は、  
自分自身が「はみ出た存在」であることに、何度も悩んできた。

でも──  
ブルーロックに出てくる、あの男。  
絵心甚八という狂気の育成者の一言が、僕の心を貫いた。

 「やあやあ、才能の原石共よ」

最初はふざけてんのかと思った。  
けど、読み進めるうちに気づいた。  
この男は、指導者の“本気”を語ってるんやと。

今回は、そんな絵心から学んだ  
「育てる側の覚悟」について、僕自身の視点で語ります。


🔥「ふざけた挨拶に見えて、魂が揺れた」

「やあやあ、才能の原石共よ。」ブルーロック/絵心甚八

絵心甚八のこのセリフを、
ただの煽り文句だと思った人も多いでしょう。

でも僕は、違いました。

この一言に、ゾワッとしたんです。
なぜならこのセリフには、覚悟と責任と、選別の愛が詰まってたから。

絵心は、選手たちにとんでもないプレッシャーを与える。

  • 脱落=一生日本代表にはなれない

  • 才能がなければサッカーやめろ

でもその選別の冷酷さと同じ熱量で、
彼は自分自身にもプレッシャーを課している。

「この育成論が間違ってたら、俺の人生が終わる」
「お前らの才能を潰したら、それは俺の責任や」

──それが、本物の指導者の姿やろ。


🪨僕は石ころやと思ってた

ASDと診断されたとき、僕はスッキリした。
「あぁ、これまでの“ズレ”は全部ここに繋がってたんや」って。

幼い頃から、周囲との違和感はずっとあった。
親からはよく言われた。

「あんたはいっつも変なこと言うなぁ」

こっちは真剣に考えたことを言ってるのに、
返ってくるのは「変やなぁ」っていうラベル。

──今思えば、親は僕を「普通の子」にしたかったんやろう。

でも僕は、
「普通」ってものに憧れたことも、目指したことも、理解したこともない。

だから、僕は“普通”になれへんかった。
ずっと“石ころ”のままやった。


💠でもある日、気づいたんや。

「俺は石ころやない。砥石や。」

原石は光るかもしれない。
でもそのままじゃ、光らへん。
光らせるには、削らなあかん。磨かなあかん。

そのために、僕自身が砥石として削られる覚悟を持つこと。
それが、僕のエゴや。


🧠僕のエゴは、「才能の原石共」を輝かせること

  • 息子は、ASDADHDを併せ持つ“超不器用な天才”や。

  • 娘は、繊細な感性と反抗期のハイブリッド。

  • そして部下たちは、それぞれ違う“エゴの塊”。

僕は彼らに“普通になれ”なんて言わへん。
言うのはいつも同じや。

「お前はどうしたい?」
「現状のままでいいと思うんか?」
「変えたいなら、どう動くんや?」

答えは教えへん。けど、問い続ける。
それが僕の砥石スタイルや。


💥本気で向き合うって、こういうことやろ?

指導者って、
「やさしく教える人」やない。

「本気で、相手の未来を背負う人」や。

僕は、息子が失敗したときに怒鳴らへん。
でも逃げたら、突きつける。
過ちを“ダメ”で終わらせず、「じゃあ次どうする?」を問う。

これって、絵心と同じやろ。

彼は「選別」する。
でもそれは、「見捨てる」んやなくて、「見極めて、引き上げる」覚悟なんよ。


🎯だから僕は、これからも砥石であり続ける

原石が光る瞬間──
それは、自分で磨くことを選んだとき。

僕はその“最初の傷”をつける砥石でいたい。
痛くても、ムカついても、あとで「あの人のおかげや」と思われる存在でいたい。


💬最後に言わせてくれ

「俺は石ころやなくて、砥石でなきゃあかんのや。」
誰かを光らせるために、僕はすり減ってもええ。

それが、僕のエゴや。