働くASDパパ、親子で“発達”してます

職場で浮き、家庭で揺れて。それでも僕は、親であり続けたい。

“普通”って、どこに売ってますのん?



■「普通」がしんどかった僕の話

「普通って、どこで売ってんねん?」

昔からずっと思ってる。

親から「普通はこうする」
学校では「普通の子はこうする」
職場では「普通にやってくれたらええねん」

めっちゃ便利に使われる言葉やけど、
正直、“普通”ってなんなんか、ずっとわからん。

でもな、ここで言っとく。

僕は「普通」になりたいわけやない。
定型発達に憧れがあるわけでもない。

ただ、「普通ってなんなん?」っていう
この問いに答えが出せへんまま、生きてるだけやねん。


■僕、超絶人見知りなんよ

僕は昔から、人見知りが激しい。

用事がない限り、人に話しかけられへん。
雑談とか世間話とかが、ほんまにできへん。

「普通に会話したらええやん」って言われるけど、
その「普通」が僕にはわからんのよ。

たとえば、喫煙所で休憩が一緒になったとき。

名前だけ知ってる程度の人と二人きりになったとする。
普通ができる人は「暑いですねー」とか「今日忙しいですねー」とか話しかけられるんやろうな。

でも僕の頭ん中はこうなってる。

「タバコ吸うて休憩したはるなぁ」
「同じ空間におるし、なにか話しかけな気まずいって思ってはるんやろか?」
「そう思てはったら、話さな嫌な気持ちにさせるなぁ」
「いやでも、今は休憩中やし、一人でゆっくりしたいって思てはるかもしれへん」
「それやと声かけたら迷惑になるよなぁ」
「うーん……どうしよ……」

ここまで考えても、絶対に答えが出えへん。

そう、“普通”がわからんから、答えなんか出せるわけあらへんねん。

だから結局、僕は黙ったままタバコの煙を見つめてる。

あ、向こうから来てくれたら、そら120%のテンションで対応するで!
来る者拒まず精神なもんで。


■普通の接し方がわからんから編み出した「いじられ戦略」

普通のコミュニケーションが取れへん僕が、
管理職のときに編み出したのが、「いじられ戦略」やった。

自分から積極的に話しかけるのは苦手やけど、
ちょっとした天然を見せたり、ツッコミ待ちの言動をしてると、
向こうから話しかけてきてくれるようになるんよ。

受動的やけど、いろんな人と多様なコミュニケーションが取れるようになった。

これをやると、部下が友達感覚で接してくれるようになる。

本音を吐き出してくれるようになって、
その中で「実はこういうの不満なんです」って声が聞こえてくる。

その不満を改善したら、僕の評価が上がる。

さらには部下が僕の上司に「ぴーさんはちゃんと話を聞いてくれて、すごく仕事がやりやすいんですぅ」とか言うてくれる。
それでまた僕の評価が上がる。

おかげで僕が新人の時の教育係の先輩より上の役職に就けたよ。

ええことづくめやったんよな。


■「普通じゃなくてええんや」と思えた瞬間

僕は「普通の人」にはなれへん。
それに、なりたいとも思わへん。

でも、「普通ってなんやねん?」って問いは、ずっと頭に残ってる。

最近思うのは、
「普通じゃなくても、生きててええんや」ってこと。

息子と過ごしてるとき、
僕が“普通の父親”じゃなくても、息子は笑ってくれるときがある。

職場でも、“普通の上司”じゃなくても、
「ぴーさんらしいですね」って笑ってくれる人がおる。

それでええんちゃうかなって、ほんまに思うんよ。


💬 読者のみなさんへ

あなたにとって、「普通」って何ですか?

「普通にならなあかん」って思って、
しんどくなったこと、ありませんか?

僕みたいに「普通じゃない自分」を活かす工夫をしてみると、
ちょっとだけ生きやすくなるかもしれへん。

もしよければ、あなたの「普通」の話も聞かせてくれたら嬉しいです。


👣 次回予告:「“できる風”を演じるとしんどい話」

「やる気ある?」──善意で言った言葉が、新人を追い詰めた日。

■「空気が読めない」と言われても

僕は昔から、人の気持ちを読み取るのが苦手やった。

よく言われる。「空気読め」って。
でもな、それって、無理やと思うねん。

空気って、無色透明やん?
文字も書いてへんし、形もない。
「見えへんもんを読め」って、どないせえっちゅう話やろ。

僕にとって空気は、「説明されてない情報のかたまり」。
つまり、“言われてないことはわからん”ってことや。

悪気はない。ただ、ほんまに見えへんだけなんよ。


■「やる気ある?」──その一言で、全部が崩れた

ある日、新人教育を担当していたときのこと。

その子はめっちゃ優秀で、仕事も丁寧やった。
正直、ずっと長く続けてほしいと思ってた。

仕事終わりに、何気なく声をかけた。

「ちょっとええか?……やる気ある?」

新人は一瞬固まって、それから視線をそらして小さな声で言った。

「……はい。あるつもりですけど……」

僕は軽くうなずいて、それだけ答えた。

「ならよかったわ。」

……そのときは、それで終わったと思ってた。

でも、そのあとすぐや。

主任のAさん(頼れる姐御肌で、普段は優しいけど言うべき時はズバッと言う人)が小走りでやってきて、僕の前で立ち止まった。

その表情はピリついていた。

「ぴーさん、さっき新人に“やる気ある?”って言いましたよね?」

僕は戸惑いながら答えた。

「ああ、うん。なんかまずかった?」

Aさんは眉をひそめて食い気味に言った。

「まずいですよ、それ。
あの子、“私やる気ないように見えてたのかな…”ってすごく落ち込んでましたよ。」

「ぴーさん、あの言い方はあかんです。
あれ、詰問にしか聞こえませんよ。」

心臓がドクッと鳴った。

「えっ、えっ、えっ、いやいや違う違う。そういうつもりやないって。
ずっと続けてほしいと思ってて、その気持ちを確認したかっただけで……」

Aさんは少し目を細めて、でも冷たくはない声で言った。

「ぴーさんの気持ちはわかります。でも、それはぴーさんの中の話であって、
言われた側は“責められてる”って感じるもんなんですよ。」

「善意なのはわかってます。でも、あの子はぴーさんより立場が弱いんです。
言葉の選び方、もう少し気にしてあげてください。」

僕は言葉が出ず、うなずくしかなかった。

「……あぁ、そうかぁ。ごめん、気づかんかった。」


■謝罪と、伝えることの難しさ

すぐに、新人の子に声をかけて伝えた。

「さっきの話な、言い方を完全に間違ってた。
君が優秀やから、ここで長く続けてくれたらええなと思ってて。
それで、ちゃんと気持ちを聞いときたかっただけなんよ。」

「でも、不安にさせてもうたんやったら、本当に申し訳ない。ごめん。」

新人は驚いた顔をしたあと、少し笑って言った。

「……そういう意味だったんですね。
私、怒られてるのかと思って、びっくりしてました。
話してくれてありがとうございます。」


■気持ちが読めないなら、言葉で伝えるしかない

この出来事は、僕にとって忘れられへん教訓になった。

空気を読むのが苦手なら、言葉で補うしかない。
今ならきっと、こう言う。

「○○さん、いつも仕事すごく頑張ってくれててめっちゃ助かってんねん。
もし気持ちがあるならさ、この先も長く続けてくれたら嬉しいなって思ってるんよ。
その気持ちを、ちょっとだけ聞かせてもらえへん?」

遠回りやけど、その方が伝わることもある。


■「気持ちが読めない」は、欠点だけじゃない

気持ちを読める人はすごい。
でも、読めない人も、生きていく方法はある。

それは、言葉を使うこと。

察する代わりに伝える。
わからないから確認する。

空気が読めない人間にこそ、
丁寧な言葉を使う強さが必要なんやと思う。


💬読者のみなさんへ

善意で言った言葉が誤解されたこと、ありませんか?

「気持ちが読めない」ことは欠点ではなく、
「伝え方を学ぶチャンス」かもしれません。

もし同じような経験があれば、
コメントで教えていただけると嬉しいです。


👣次回の記事:「“普通”って、どこに売ってますのん?」

完璧じゃなきゃ、価値がないと思ってた。僕が“やめられへん病”から抜け出しかけてる話

■「まだ足りん」って言われ続けた僕の原点

僕が完璧主義になったのは、きっと親の影響が大きい。
自分では、もう限界やってくらい頑張ってたのに、「なんやそれで終わりか」みたいに言われてきた。

「もっとできるはず」
「その程度で満足してるようじゃアカン」

そうやって育つうちに、だんだんと自分に対しても「完璧じゃない=失敗」と思い込むようになってしもた。

何をするにも「100点取らな価値がない」って思いながら生きてきたんやと思う。


■国家試験の“地獄のような勉強”と、やめられへん完璧主義

あるとき、僕は難関国家資格にチャレンジした。
試験範囲は、とんでもなく広い。

普通の人やったら「ここは確実に取る」「ここは捨てる」って要点を絞って戦うやろう。
でも僕は違った。

テキストの隅から隅まで、ぜんぶ把握せな気が済まんかった。
どこから出題されるかわからんやん。
「落としたらアカン」って不安の声が、頭の中で鳴りっぱなしやった。

非効率やってわかってても、手放せん。
「全部わかってないと受からん」って、自分に言い聞かせてた。

 

案の定キャパオーバーで自滅。


■やっとわかった。「それ以上」はできへんのや

最近になって、やっと思えるようになった。
「自分が限界までやったなら、それでええ」って。

例えば、人間関係。
職場とかプライベートで、みんなに好かれようとして、
100%の力を使って“良い人”を演じてる。

それでも嫌われる人には嫌われる。
ほんま、どうしようもないんよな。

そこで思ったんよ。

これが俺のMAX。それで無理やったら、もうしゃあない。その人とはムリや。
ってな具合に思えると、余計な事を考えなくてすむ。

来るもん拒まず、去る者追わず精神やね。
でないと、心がもたん。


■完璧な親じゃないとアカンと思ってた頃の僕

完璧主義って、仕事だけやない。
子育てにも、顔を出す。

最初の頃は、「ちゃんとした親」でおらなアカンと思ってた。

子どもの前ではミスせんように。
怒らんように。
すぐ気づいてあげられるように。
的確なアドバイスができるように。

 

……って、できるかぁ!んなもん。

 

今では、「実はお父さんも昔な、怠けて課題サボったことあって先生にめちゃくちゃ怒られたんよ」とか、「お父さんも子どもの頃、感情コントロールできんくて友達にきつい言い方してもうて後悔したことあるんよ」みたいに、僕自身の失敗もそのまま伝えるようにしてる。

完璧な親であろうとするより、失敗をどう受け止めるかを見せるほうが大事なんちゃうかなって、今はそう思ってる。


■今の僕は「完璧じゃあない僕」もまあまあ好きで

まだ完全には抜け出せてへんけど、
完璧主義を“手放す練習”は、ちょっとずつできてると思う。

「今の自分が出せる力、これがMAXや」って認められるようになってきた。
「間違っても、誰かに嫌われても、それで俺がなくなるわけやない」って思えるようになってきた。

完璧じゃあない僕、まあまあ好きやで。
むしろ、そのほうが自然で、無理してへん自分でいられる気がする。


💬あなたにも「やめられへん病」ってありますか?

ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
僕は今も、完璧主義と折り合いをつけながら生きています。

「〜すべき」「〜でなければならない」といった声が、自分の中に強く響くことはありませんか?
そういった声に飲まれすぎず、自分のペースで歩むことができると、少し楽になれるかもしれません。


📣コメントで教えてください!

  • 完璧を求めすぎてしんどかった経験

  • 少し肩の力を抜けたきっかけ

  • 親としての「ちゃんとせな」に苦しんだこと

同じような想いを抱えている方がいれば、
あなたのお話もぜひ教えていただけるとうれしいです。


👣次の記事:「人の気持ちが読めない」って、どうやって説明したらええねん問題。

白か黒かしかない僕が、“グレーでもええやん”と思えた話

■「中途半端って一番あかん」って思ってた僕へ

昔の僕は、0か100か、白か黒か、できるかできないか。
そのどっちかでしか、物事を判断できへんかった。

「途中までやっても意味がない」
「完璧じゃないと、やったことにならへん」
「中途半端=カッコ悪い」

そう信じてたし、そうやって自分を追い込むことで“ちゃんとした人間”になれると思ってた。

でも実際は、心がしんどくて、息苦しくて、何ひとつ楽しめてなかった。


■ 白黒思考は、ASDあるあるなんかもしれへん

僕にはASD自閉スペクトラム症)の特性がある。
ルールがあると安心するし、枠の中のほうが動きやすい。

でもその反面、「曖昧さ」がほんまに苦手なんよ。

仕事で「ええ感じにしといて」「ペン何本か持ってきて」「その辺に置いといて」とか言われると、頭がフリーズする。
“ええ感じ”って何や?“何本か”って何本?“その辺”ってどこ?

一応、最善を尽くして考える。
目的は?過去のパターンは?今の状況や周囲の流れは?……って情報をかき集めて、
「今の僕が出せる最適解」を出して、ようやく動ける。

でもこれが、もうめちゃくちゃしんどい。些細なことやのに、時間もエネルギーもめっちゃ使う。

最近は、「とりあえず動いて、違ったら指摘してもらえばええわ」って開き直ってる。
実際、指摘されたら「了解です!」で済むし、なぜか天然扱いされて場が和むこともある。
(心の中では、めっちゃ計算してるんやけどな…笑)


■ その思考、子育てにも顔出すんよな…

白黒思考は、自分だけの問題やと思ってた。
でも、気づいたらその“基準”を息子にも当てはめてた。

宿題を最後までやらなかったとき、
プリントをぐちゃぐちゃに持って帰ってきたとき、
人の話をちゃんと聞いてなかったとき——

「なんでちゃんとできひんねん」
「全部やらな意味ないやろ」
「それってズルやんか」

今思えば、それって僕の“白黒でしか判断できない苦しさ”を息子にぶつけてただけやった。
息子は“グレーの世界”で懸命にやってたのに、僕の価値観がそれを否定してたんや。


■ “グレーでええやん”と、やっと思えた瞬間

僕が少しずつ変われたのは、「こんなんじゃ身がもたへん」と限界を感じたから。
白黒つけようとするたびに疲れて、イライラして、自分にも周りにも優しくなれんかった。

ほんの少し肩の力を抜いて、「まぁこんなもんでええか」と言えるようになってきた。
仕事でも、「とりあえずやってみる」ようにしたら、案外うまくいくことも多い。

子育ても同じで、「今はこれが息子の100%なんやな」って思えるようになってきた。


■ 子どもにも、“白黒つけない”という優しさを

今は、白か黒かで怒るんやなくて、
「今日はここまでで十分や」って伝えるようにしてる。

「忘れ物してもええ。気づいたことが大事や」
「ちゃんとできへん日があってもええ。失敗は成長の種や」

グレーって、妥協やなくて、
“柔らかさ”とか“余白”とか、そんな優しさを含んでる気がする。


✅まとめ:白黒思考をやめたら、生きるのがちょっとラクになった

昔の僕は、白か黒かでしか見られへんかった。
けど今は、「曖昧でも、未完成でも、それでええやん」って思えるようになってきた。

息子にも、自分にも、「今のままで大丈夫やで」って伝えたい。

今日も、グレーのまま、生きていく。
それでええやん。むしろ、それがええやん。

 


💌 あなたの「白黒思考」どうですか?

ここまで読んでくれてありがとうございます。
僕は今も、「これって白か黒か決めつけすぎてへんか?」って、自分に問いかけながら過ごしてます。

もしかしたら、同じように「グレーが怖い」「中途半端が許されへん」って感じてる人も、いてはるんじゃないでしょうか?


📣 あなたの「白黒しんどかった話」教えてください!

・仕事で「ええ感じ」でパニクった経験
・子どもに“完璧”を求めてしまった場面
・白黒思考に自分が追い詰められた瞬間
・「グレーでもええやん」と思えたターニングポイント

どれでもええです。全く関係のない一言でも大歓迎。
コメントで、あなたの声を聞かせてもらえたらめっちゃ嬉しいです!


🧩 一緒に“グレーで生きる練習”、していきませんか?

僕は、息子と一緒に“白黒つけない力”を育てていきたいと思ってます。
それは、発達ある・なし関係なく、
“自分にも人にもやさしくなれるヒント”やと思うんすよね。

焦らず、ゆる〜く、一緒にやっていきましょー♪

 

👣次回予告

次の記事:「完璧主義やめられへん病」。これまた、根深いんですわ。

ASD脳は、”〜しなければ”で壊れかける

気づいたら、頭の中が「〜しなければならない」って言葉でいっぱいやった。
そうせなアカン。ちゃんとせなアカン。
発達特性があるからこそ、失敗できへん、迷惑かけたらアカン――
そんなmust(絶対)の思考に、自分で自分を縛りつけてた。

そしてその思考は、いつのまにか「子育て」にも入り込んできてた。

 

 

僕の頭の中は、ずっとmustだらけ

・人に迷惑かけたらアカン
・時間は守らなアカン
・ちゃんとしてなアカン
・完璧にこなさなアカン

こんな言葉が、いつも頭の中をグルグル回ってる。
誰かに言われたわけやないのに、気づいたら勝手に“脳内ルール”が作動してしまう。
そのルールを守れなかった日は、自分に価値がないようにすら感じてた。

 

 

must思考が、心と体をしんどくする

その義務感って、結局は自分で作った「重し」なんやけど、外そうと思っても外せへん。
しんどくても無理してやってしまう。
できなかったら、「なんでできひんねん」って自分を責める。
ほめられても「もっと頑張らなあかん」って返してしまう。

それってほんまは、“努力”やなくて“自分いじめ”やったんやと思う。

 

 

だから、言葉を変えた。「must」から「should」へ

ある日ふと思った。
「このままやと、自分で自分を壊してまう」って。

それからは、できるだけ「〜しなければならない」→「〜したほうがええな」に変換するようにしてる。
mustからshouldへ。
たったそれだけやけど、心の中に少しずつ余白ができてきた。

「今日は無理でも、また今度やればええ」
「ちょっとだけやれた自分、よう頑張った」
そうやって、自分にやさしい言葉をかけられるようになった。

 

 

その思考、子どもにも“うつる”んよな

ここがいちばん大事なところ。
この「must思考」、実は自分だけの問題やなかったんよ。

知らん間に、うちの子にも押しつけてしまってた。

「ちゃんと座っとき」
「静かにしなさい」
「人に迷惑かけたらアカンやろ」
「もっと頑張らなあかん!」

その言葉の奥には、僕のmustが詰まってた。
僕が自分を縛ってた鎖を、そのまま息子にも巻いてしまってたんやと思う。

 

 

子どもには自由をあげたいはずやのに

ほんまは、「自由にのびのび育てたい」って思ってる。
発達特性があるからこそ、枠にハメすぎず、好きなことを大事にしてあげたい。
…そう思ってたはずやのに。

must脳で育った僕は、無意識のうちに「正しさ」を押しつけてた。
「周りに迷惑かけたら恥ずかしい」
「ちゃんとせなみんなが困るやろ」
「世の中そんなに甘くないで」
――全部、自分の中に巣くってたmustの声やった。

 

 

子育ても「should」でええと思う

それに気づいてからは、息子にもできるだけ“should”の言葉で伝えるようにしてる。

「静かにしなさい」やなくて、
「今はみんなの話を聞く時間やから、静かにしたほうがよさそうやで」とか。

「失敗したらアカン」やなくて、
「失敗してもええねん。大事なんはそのあとやで」って。

ルールを教えることと、自由を奪うことは違うって、ようやく少しずつわかってきた。

 

 

まとめ:自分にも、子どもにも、余白を。

mustで縛る生き方は、きっと楽にはなれへん。
でも、shouldで寄り添う生き方なら、少しずつ楽になっていけると思う。

完璧な親にはなれへんけど、一緒に育つ親にはなりたい
自分を許すことは、子どもにも優しくなる第一歩やと思ってる。

今日も、ちょっとずつ「must」を手放して、
「ほんまはどうしたいんか」を大事にしながら生きていきます。

 

 

 

🌱 あなたは“must”に縛られてませんか?

ここまで読んでくれてありがとうございます。
今、僕は少しずつ「must」を手放して、「should」で生きる練習をしてます。
でもこれは、きっと僕だけの話やないと思ってます。

あなたの頭の中にも、「〜しなければならない」が渦巻いてませんか?
それが知らん間に、自分自身や誰かをしんどくしてること、あるかもしれません。

 

💌 あなたの“must体験”、ぜひ教えてください

・気づけば、自分を追い込んでた言葉
・親として、子どもに押しつけてしまった後悔
・「こう考えたらラクになった」っていう小さなヒント

何でもええです。
同じようなことで悩んだことがある方、ぜひコメントで教えてください。
ひとりじゃないってわかるだけで、心が少し軽くなることもあるから。

 

僕は、これからも「must脳」とゆるやかに付き合いながら、
子どもと一緒に、発達し続ける日々を綴っていきます。

 

 

👣次の記事:白黒思考からの脱却?それがまた難しいんですわ。

自分勝手すぎる!と息子を責めた僕が、いちばん自分勝手やった

息子が小2のときのこと

サッカーの体験教室に参加しただけのはずやった。
でも、僕にとっては“親”としての未熟さを突きつけられた、忘れられへん一日になった。

 

準備OK。でも、試合が始まった瞬間に違和感

その日、息子はサッカークラブの体験に参加した。
初めての場所にちょっと緊張しつつも、準備は問題なし。シューズ履いて、水筒持って、表情も悪くなかった。
僕も「ええ表情しとるし、まぁうまくいくんちゃうか」と、どこかで安心してた。

 

けどな。
試合が始まった瞬間、想像してなかった光景が目の前で起きた。

うちの子は、ボールを止めるのに平気で手を使った。
他の子を押し倒してしまったり、ルールとまるで関係ない動きも多かった。
ついには、ボールに覆いかぶさって、コーチが何回止めても耳に入らん。

試合は進行不能になって、周りの空気もピリついた。
僕の頭ん中も、真っ白になってた。

 

 

感情が先に出てしもた。“正しさ”を押しつけた僕

その光景を見て、僕の中の“正しさセンサー”が暴走した。

「もっと周り見ろや」
「自分勝手すぎや」
「ダサいぞ」
「お前はチームプレー向いてへんわ」

気づいたら、そんな言葉を次から次へとぶつけてた。
口調もきつかったし、目も吊り上がってたと思う。

そのときの僕には、
「他の子に迷惑かけた」
「ルールを守ってない」
「みっともない」
そんな“理想の父親”みたいな基準ばっかりが頭にあった。

でもほんまは、ただ自分が恥ずかしかっただけやと思う。
「親として、ちゃんとしてる姿を見せなあかん」
「うちの子だけ浮いてるのを見られたくない」
そんな感情で、息子にあたってしまった。

 

 

なんで言ってしまったんやろ。“親”としての後悔

家に帰ってから、後悔ばっかりが頭をぐるぐるしてた。

息子の顔は、正直どこかぽかんとしてた。
怒られてるのはわかってたと思う。でも、自分がなにを間違えたのか、きっと理解できてなかったんちゃうかな。

そりゃそうや。
僕は、なにも聞かずに一方的に怒っただけやったから。

なにを考えて、なにを見て、どうしてそう動いたんか。
一回も聞こうとしなかった。

ただただ、「僕が見てる“正しさ”」をぶつけてしまっただけやった。

 

 

息子の気持ちを、ちゃんと聞けてたら

いま思う。
あのときほんまに大事やったんは、
うちの子がどんな気持ちでそこにいたんかを、ちゃんと聞くことやった。

サッカーが苦手やったんかもしれん。
ルールを理解してなかったのかも。
それでも楽しもうとしてた可能性もある。

それを知ってからでも、伝えられることはあったと思う。
「こういうときはこうした方がよかったな」とか、
「それはアカンけど、こんなやり方なら大丈夫やで」とか。

結果だけ見て怒るんやなくて、
その気持ちを“うまく形にする方法”を一緒に考える
それがほんまの“チームプレー”やったんやろな。

 

 

まとめ:反省しながらでも、親でありたい

子育てって、ほんま難しい。
反射的に怒ってしもて、あとから後悔して、また反省して…。

でもそれでも、諦めたくない。
僕は、親として成長したいと思ってる。
子どもと一緒に、まだまだ“発達”していきたい。

たぶんこれからも失敗する。
けど、そのたびにちゃんと向き合って、考えて、前に進みたい。

今日も、反省しながら、親してます。

生きづらさに「NO!」親子で挑む“自分らしさ”の黄金の軌跡

親の無理解――それは運命(さだめ)か、宿命(さだめ)か

オレの幼少期は、まるでスタンド攻撃を受けているかのような窮屈さに満ちていた。


親はオレの特性を一切認めなかった。

それが“普通”だと信じ込まされていたあの頃――
気がつけば、自分の「本体」を押し殺し、周囲に合わせる“偽りのマスク”を身にまとって生きていた。

 

 

地獄の暗闇――社会人で迎えた絶望の時

その窮屈さは、時を経てオレの心に深いダメージを残していた。
社会人になったオレは、もはや逃げ場のない“地獄”にいた。
「もっと早く自分の特性に気づいていれば…」
何度も何度も、心の中でエコーズのように反響する後悔の声。

 

 

黄金の意志――息子には“真逆”の道を示すッ!

だが、運命はここで終わらない。
今、オレには発達障害の息子がいる。
オレは決意した――
「親から受けた否定のスタンド攻撃には、絶対に屈しないッ!」
息子には、オレがされてきたことの“真逆”を貫く覚悟(カクゴ)を持った。

「自分はこう感じる」

「これが苦手」

「こうしたい」
息子がそう語るとき、オレは否定せず、そのすべてを受け止める。
それは、幼き日のオレが誰よりも求めていた“認める”という力――
まさに「黄金の軌跡」を歩むための意志ッ!

 

 

反面教師――運命を超える“継承(インヘリット)”

今なら言える。
親のやり方がすべて悪だったわけじゃない。


あの経験が、、、オレに

「絶対に同じ思いを息子にさせないッ!」

というスタンドパワーを授けてくれた。
反面教師――それは、オレの“意志”を継ぐためのギフトだったのかもしれない。

 

 

覚悟の結晶――親子で歩む黄金の軌跡

親として完璧な答えはない。
だが、オレは

「自分がされて嫌だったことはしない」

「子どもの特性を認める」


この覚悟を胸に、親子で新たな道――
「黄金の軌跡」を歩み続けるッ!

 

 

オレたち親子の奇妙な冒険は、まだ始まったばかりだ――!